Fate/Grand Orderの話をするとしよう

ゲームはヘタクソでも計画と計算でFGOを楽しんでいく記録

「結城友奈は勇者である」が視聴者に伝えようとした事について

今季最終回を迎えたアニメ(の私が見ていた中)で異彩を放っていたものとして、私は「結城友奈は勇者である」を挙げなければならない。

この作品は、一言でいえば「異色」である。

1 これまで比較的平和な世界を描いてきたStudio五組の作風とは、全く毛色の違った作品であるということ。
2 その「Studio五組」の作品だということを差し引いても、「ここまで描いていいの!?」と思わせられるような描写が多いこと。
3 びっくりするほどハッピーエンドで終わった最終回。

1については、放送前に流されていたCMでもそうだったように、2の要素を全く感じさせない明るい作風として誤読を促す手としては最上手だったと思う。(かくいう私も明るい作風だとすっかり騙されてホイホイ見てしまいました。)

私が疑問を感じたのは、2と3の落差である。それだけではなくこの作品には、それほど根幹には関わらなそうではるのだが違和感を感じさせる要素が多く登場する。

まずは第一話冒頭の勇者の人形劇で、結城友奈が魔王のしていることを「悪いこと」としていること。

友奈「やっとここまで辿り着いたぞ、魔王!もう悪いことはやめるんだ!」
風「私を怖がって悪者扱いを始めたのは、村人達の方ではないか!」
友奈「だからって嫌がらせはよくない!話しあえば分かるよ!」

この人形劇は、(この時点での)勇者部を象徴しているはずである。しかし、この後、結城友奈は何度も「誰も悪くない」と繰り返す。この人形劇はとあるトラブルにより本当の結末を見せないまま、この人形劇は学園祭での演劇で別の形で結末を見せることになる。どういう結末かというと、「自分を悪だと理解してそれでも悪を行う魔王」に対して、斬りつけるのである。

友奈「世界には嫌なことも、悲しいことも、自分だけではどうにもならないことも沢山ある。だけど、大好きな人がいれば、挫けるわけがない、諦めるわけがない、大好きな人がいるのだから、何度でも立ち上がれる。だから、勇者は絶対、負けないんだ!」

この部分にも違和感がある。解決方法が悪化しているのである。

次に、障害を負った登場人物が勇者部の仲間に入っていること。怒られるかもしれないが、そういった目に見える形での障害を持った登場人物を主人公に次ぐ位置で活躍させるということは、普通あまり見ない。登場するにしても、もう少し控えめな役が多い。

神樹様に対する崇拝や「国防」という言葉など、20世紀初頭の日本を思い起こさせる穏やかではない表現が存在する。もしかしたら、これらは同一にくくってはいけないのかもしれない。ここに別々の意味があるかもしれないが、枝葉の部分を論われてネット上で叩かれることはあまり得策ではないはずなので、ここにも明確な意図があるように思われる。

閑話休題

結論からいうと、私は、この作品は「衝撃を与えて視聴者に疑問を投げかけること」を目的(の一つ)としていたから、「何かメッセージを受け取ろうとして視聴していた私」は、この作品を放送中に上手に解釈できなかったのではないかと考えている。

私の解釈では、この作品世界は、「苦肉の策」の積み重ねで成り立っていると考えられる。根拠はこの作品の主人公、「神樹様」が選んだこの作品於いて最も世界と親和性のある存在の発言である。

友奈「世界を守るためにはそれしかなかった!だから誰も悪くない!選択肢なんて誰にもなかったんです!」

「御役目とはいえ真実を隠していた犬吠埼風」、「後遺症を知らなかったとはいえ、満開を行使した勇者部」、「真実を伏せていた東郷美森の両親と大赦」、そして恐らく「限られた人類を救うために他の人類を見捨てた神樹の神様」というのもあるだろう。(大赦が全くの悪意だけではなく、ギリギリの所で運営していることは「鷲尾須美は勇者である」から伺われる。)

鷲尾須美は勇者である

鷲尾須美は勇者である

「当事者にとっては仕方が無い事」の繰り返しで世界ができていて、それが嫌ならば東郷美森が行ったように世界を壊すしか無い。しかも、それに対して、視聴者には容易に肯定ができないようになっている。もし、仮に肯定するならば、結城友奈達が障害を負い、彼女たちが守ろうとした日常が奪われることを肯定することになる。この仕組みこそが「結城友奈は勇者である」が描こうとしたものなのだと思う。

「作中正義」というものは、時に理屈をすっとばして感情で押し切られる。制作側は、視聴者がその「作中正義」に共感して肯定することを期待するのが常なのだが、「結城友奈は勇者である」では、共感はできても、肯定することが難しい。「肯定」する権利があるのは、実際に代償を覚悟して満開をした勇者部の五人だけである。もし認めてしまえば、視聴者は勇者部の五人の不幸を看過したも同然になってしまうのだ。

だから、この作品は、「彼女たちの選択を肯定してあげたいけどできない」という違和感を視聴者に残すことによって、現在の社会が抱えている様々な不条理に目をむけることを意図しているのだと思う。近いところでは、アニメ業界や声優業界の闇などがそうだろう。

そう考えるなら、最終回でそれまでの展開をひっくり返すような結末を迎えることにも、「疑問を投げかける」という点では達成されているし、アニメ製作者側が大赦と同様に現実との折り合いを付けて苦肉の策を行っている存在だと仮定するなら、「止むを得ず辛い目に遭わせてしまったが報いてあげたいと思っている」という思いを大赦と神樹に代わって、あるいは彼ら(の大勢)と思いが同じだから、「アニメ制作側と大赦と神樹が勇者部の五人に報いてせめてもの罪滅ぼしをした」ということなのかもしれない。私は、感傷的かもしれないが最終話の演劇には、大赦も神樹も列席してこれまでの感謝を込めて拍手をしていたと思う。

だから私も彼らと一緒に勇者部の五人に今なら言ってあげられると思う。

「お疲れ様、ありがとう。」